阿川佐和子はハリソン・フォードのインタビューで、通訳の戸田奈津子に初めて会っている。
●記憶の中できらめく曲 「ジ・エンド」ドアーズ
フランシス・コッポラが「地獄の黙示録」を撮影中だったんです。
ベトナムは戦争やってるからロケできませんでした。
フィリピンのジャングルで撮ってきたんですね。
アメリカとフィリピンを何べんも往復するわけ。日本が真ん中にあるから
お寄りになるわけ。で、私がガイド兼通訳を。
可愛がっていただいて。
コッポラさんに会うまでは日本から出たことなかったんだけど。
ロケも見せてもらって家にも行って。めったにない体験ですよ。
社会的現象になった映画だから、私みたいな半人前の翻訳者に
仕事が来るわけないですよ。
なんかの折に監督に「字幕にしたい」と言ったんだと思う。
だから「鶴の一声」ですよ。私ホントに仰天しまして。体がすっ飛ぶ思い。
大学出て20年ぐらいだったです。結果的には20年waiting してたのかな。
●字幕翻訳者を目指した理由
小学校の中頃で終戦、洋画が解禁になり
おかげで中学校で英語の授業が始まった。映画に関係ある事の一つに
語学があって。大学行って、キャリアだったら好きなことがしたいでしょ。
語学と映画、ふたつを活かせるのは字幕だわって
大学を卒業するころ遅まきにも気がついて。
周りは「映画なんてやくざの仕事である」と。
なぜか字幕に目をつける人はいなかった。
洋画は日本に何百本と入ってくるけど、翻訳者は10人ぐらいで出来る。
30人いたって誰かが亡くならないと仕事は来ない。
だから大会社の秘書課に入ったけど、組織がダメだったんですよ。
9時から5時まで暇でも居なきゃいけない。1年半で懲りて辞めちゃって。
フリーターです。なんでもやりますって。
1週間に何日か行ってビジネスレターを作る。
今みたいに通訳さんっていないわけ。たまたまあたしがタイプ打ってたから
会社の人が「あのひとしゃべれる」って勝手に思って。
あの頃の英語教育って、
戦争経てきた先生にお出来になるわけないじゃないですか。
でも「やれ」と。望んだわけじゃないけど30代で通訳が字幕に先駆けて始まった。
執念深いとは違うの。他にやりたいことが何もなかったの。
結婚のプレッシャーはございましたわよ。でも佐和子さんと違って
結婚願望はなかった。
●字幕翻訳とは
シナリオと映像を突き合わせるのが最初。
一回試写を観て映画を頭に入れる。
「ここで字幕を入れますよ」ってところに切れ目を入れる。
ワンセンテンス、何秒のセリフかを測る。
普通の観客は画面の動きを観るから、字幕はちらっと。
(1秒間に3文字ぐらいのスピード、5秒なら15文字。)
早口の人は短くカットする。
・最新作は「リベンジ・マッチ」
【直訳】:俺たちをみろ!俺たちはまだ死んでいないぞ(42文字)皆が俺たちを笑ってる!全世界が俺たちを笑ってる!
【戸田訳】:世間の物笑いのまま終わりたいのか?(17文字)
【直訳】:だが俺たちは死んでない まだ死んでないぞ。それどころかこういうことになって俺は今までにないパワーを感じている(54文字)
【戸田訳】:戦えるところを見せよう 今の俺はファイト満々だ!(22文字)
エッセンスを取り出して日本語に直す。
その人の気持ちになってやらないと、ただ訳してもセリフにならない。
若い子は活字離れだから、レベルを落としちゃうの。
字幕映画は無くならないの。
「旅情」の原題は「Summer Time」、「哀愁」は「Waterloo Bridge」
邦題がカタカナだらけになったのは同時公開になったから。
昔は日本で公開するまで1年かかった。
シルベスタ・スタローンはとっても頭がいい。
自分でシナリオ書いて監督賞だから。
ロバート・デ・ニーロは無口。すらすらと答えが出ない。
でも白いキャンバスを与えるとわーっと描くようなタイプ。
アタシ日本男児好きだから。
●今元気を与えてくれる曲
フランク・シナトラ「One For My Baby」お酒飲みたくなる。