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まとめ・文字起こし+ココログ過去記事集。

サワコの朝 戸田奈津子

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阿川佐和子ハリソン・フォードのインタビューで、通訳の戸田奈津子に初めて会っている。

記憶の中できらめく曲 「ジ・エンド」ドアーズ

フランシス・コッポラが「地獄の黙示録」を撮影中だったんです。
ベトナムは戦争やってるからロケできませんでした。
フィリピンのジャングルで撮ってきたんですね。
アメリカとフィリピンを何べんも往復するわけ。日本が真ん中にあるから
お寄りになるわけ。で、私がガイド兼通訳を。
可愛がっていただいて。
コッポラさんに会うまでは日本から出たことなかったんだけど。
ロケも見せてもらって家にも行って。めったにない体験ですよ。
社会的現象になった映画だから、私みたいな半人前の翻訳者に
仕事が来るわけないですよ。
なんかの折に監督に「字幕にしたい」と言ったんだと思う。
だから「鶴の一声」ですよ。私ホントに仰天しまして。体がすっ飛ぶ思い。
大学出て20年ぐらいだったです。結果的には20年waiting してたのかな。

 
字幕翻訳者を目指した理由
小学校の中頃で終戦、洋画が解禁になり
おかげで中学校で英語の授業が始まった。映画に関係ある事の一つに
語学があって。大学行って、キャリアだったら好きなことがしたいでしょ。
語学と映画、ふたつを活かせるのは字幕だわって
大学を卒業するころ遅まきにも気がついて。
周りは「映画なんてやくざの仕事である」と。
なぜか字幕に目をつける人はいなかった。
洋画は日本に何百本と入ってくるけど、翻訳者は10人ぐらいで出来る。
30人いたって誰かが亡くならないと仕事は来ない。
だから大会社の秘書課に入ったけど、組織がダメだったんですよ。
9時から5時まで暇でも居なきゃいけない。1年半で懲りて辞めちゃって。
フリーターです。なんでもやりますって。
1週間に何日か行ってビジネスレターを作る。
今みたいに通訳さんっていないわけ。たまたまあたしがタイプ打ってたから
会社の人が「あのひとしゃべれる」って勝手に思って。
あの頃の英語教育って、
戦争経てきた先生にお出来になるわけないじゃないですか。
でも「やれ」と。望んだわけじゃないけど30代で通訳が字幕に先駆けて始まった。
執念深いとは違うの。他にやりたいことが何もなかったの。
結婚のプレッシャーはございましたわよ。でも佐和子さんと違って
結婚願望はなかった。
字幕翻訳とは
シナリオと映像を突き合わせるのが最初。
一回試写を観て映画を頭に入れる。
「ここで字幕を入れますよ」ってところに切れ目を入れる。
ワンセンテンス、何秒のセリフかを測る。
普通の観客は画面の動きを観るから、字幕はちらっと。
(1秒間に3文字ぐらいのスピード、5秒なら15文字。)
早口の人は短くカットする。
・最新作は「リベンジ・マッチ」
直訳】:俺たちをみろ!俺たちはまだ死んでいないぞ(42文字)皆が俺たちを笑ってる!全世界が俺たちを笑ってる!
戸田訳】:世間の物笑いのまま終わりたいのか?(17文字)

【直訳】:だが俺たちは死んでない まだ死んでないぞ。それどころかこういうことになって俺は今までにないパワーを感じている(54文字)
【戸田訳】:戦えるところを見せよう 今の俺はファイト満々だ!(22文字)

エッセンスを取り出して日本語に直す。
その人の気持ちになってやらないと、ただ訳してもセリフにならない。
若い子は活字離れだから、レベルを落としちゃうの。
字幕映画は無くならないの。
「旅情」の原題は「Summer Time」、「哀愁」は「Waterloo Bridge」
邦題がカタカナだらけになったのは同時公開になったから。
昔は日本で公開するまで1年かかった。

シルベスタ・スタローンはとっても頭がいい。
自分でシナリオ書いて監督賞だから。
ロバート・デ・ニーロは無口。すらすらと答えが出ない。
でも白いキャンバスを与えるとわーっと描くようなタイプ。

アタシ日本男児好きだから。

●今元気を与えてくれる曲
フランク・シナトラ「One For My Baby」お酒飲みたくなる。