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まとめ・文字起こし+ココログ過去記事集

NHK ミュージックポートレイト 吉永小百合×坂本龍一

吉永小百合
東京大空襲の3日後、1945年3月13日生まれ。
食べ物も全くなく、もちろんお乳も出ず、すぐ防空壕に入った。
味噌汁に近いものを飲んでたと聞かされてはいる。
そうかもしれないという感覚はあるんですね。

 

唯一残ったピアノで母が弾いたメロディが
・ワルツ 嬰ハ単調 ショパン
母は若いころからピアノをやっていて、父が事業に失敗したため
母がピアノの先生で生計を立てていた。
・浜辺の歌 映画「二十四の瞳」より
この作品を見て胸が熱くなり。私のバイブルになっている。
学校の隣に移動少年院があって、劇をやった時に子どもたちが泣いていた。
演じるって素敵なことなんだと思った。
・手のひらの歌 映画「キューポラのある街
監督が「貧乏ってものをよく考えてごらん。君は山の手の貧乏だろ。
下町の貧乏はこうなんだ」そのときはよくわからなかったんだけど
町工場の人たちとか見て、考えながら演技をすることを知った。

仕事と家を往復する日々で高校を卒業できず
このままでいいのかと思い始めた。
一度はあきらめた学生生活を取り戻すため、20歳で早稲田大学へ。

交響曲第6番「田園」ベートーベン
学校と仕事、やすらぎの場所は歌舞伎町の喫茶店
すごく励ましてもらった。ひとりだったら20代の前半を乗り切れたかどうか。

働きづめで体に異変。26歳で声が出づらくなった。
完全に出なくなればいいんだけど、ウイスパー。原因がわからない。
脳が声を出すことを命令しなくなってるから休むしかないと。薬がない。
吉永小百合じゃなくなることが一番大事だと。
28歳で結婚。家出のような形で結婚。

 

ずっと我慢して耐えてきたのだから。
34歳、「動乱」で復帰。
・流れるなら 小椋佳

「動乱」挿入歌。映画の魅力を知った。
この世界でもう一度しっかり仕事がしたい。
「はい」と「イエス」が言えるように(←「イエス」と「ノー」じゃないかな?」)
小泉文夫さんとの出会い
・コンドルは飛んでいく
世界中の音楽を訪ねる旅の番組。人生の価値観を変えた。
坂本サンも高校生のころから尊敬している。
希望 岸洋子
夫(岡田太郎氏)が病に倒れた時、探し回って購入した。
病室で聴いていた。
・生ましめんかな 栗原貞子 (ギター 村治佳織
夢千代日記」が縁で原爆詩の朗読を始める。


坂本龍一
父は編集者。家は本だらけ。
「美は乱調にあり」とかすごく記憶にあった。
母の勧めでピアノを習い始める
・2声のインヴェンション 第1番 バッハ
さっきのショパンのワルツなんか特徴的なんですけど、右手は美しいリズム、
左手は伴奏だけ。左ぎっちょの私としては不公平だと子どもながらに思って。
これは右手と左手が対等。すばらしい。
叔父に「ね、ね、バッハって知ってる?」って。

女の子にもてるからバスケ部に入ったんだけど
音楽のない生活になって「バスケ辞める」って言ったら
先輩に殴られた。

弦楽四重奏曲 ドビュッシー
初めて聴いたときはびっくりした。初歩的な作曲の構造が分かった。
強烈な印象。
・PIANO PHASE スティーヴ・ライヒ
高3ぐらいだったかな。それまでの音楽と違って、変化がちょっとしかない。
新しい音楽がないかなと狩りをするみたいな中で見つけた。
・The Ballad Of Sexcial Dependency クルト・ワイル
歌劇 三文オペラより

東京芸大では美術の友達ばかりできたが、彼らは演劇をやっていた。
手伝いをすることになったが、すごく刺激的だった。
飲み屋で知り合った友部正人が「明日レコーディングするから」
半年間ライブハウスを一緒に回った。
いわゆる職業的なミュージシャンのなるきっかけ。

父は絵にかいたような九州男児で軍隊にも行っているから、荒っぽくて。
作曲家になるのかと思ったらYMOだし。
「俺はお前をピエロにするために大学にやったんじゃない!」
YMOのジャケットを見て怒っていた。
・CANTON JAPAN
僕たちが作った音を彼らが聴いて刺激されて
それがまた入って来て、音楽でのやり取りが何年も続いた。
YMOがなかったら、海外に出て行くこともなかったと思いますし
葛藤はあったけどやってよかった。5年間ぐらいですね。
MERRY Christmas Mr,Lawrence 映画「戦場のメリークリスマス」より
あの青い空のように 映画「北のカナリア」より
人生の最後に聴きたい曲。
6人の子供たちが映画の中で歌った歌。

30歳で「戦メリ」
僕に音楽をやらせてくれるなら、出てもいいですよ。
それまでは映画音楽の経験がなかったが、なぜか「できる」と思った。
ベルナルド・ベルトルッチ監督との出会い
ラストエンペラー」撮影後、帰国2週間で音楽制作。
Olmo E Alfredo エンニオ・モリコーネ~映画「1900年」より
絶対たどりつけないようなすごい人。
徹夜で40曲書いたのに、編集が変わってて尺が合わなかった。
電卓叩いてようやく間に合わせた
てぃんさぐの花 古謝美佐子
ある日本番でうまく歌えなくなり、落ち込んでいた
島唄」が歌えないでしょ、と怒っていた。
父が聴いて「これはお前の音楽じゃない」と怒り出し、けんかに。
エナジーフロウは、病気で倒れた父のために書いた曲。
父は2002年4、80歳で亡くなる。
Sabia アントニオ・カルロス・ジョビン
父を亡くしたことと、会えなかったけど敬愛してるジョビンとが結びつく。
RADIOACTIVITY(放射能) クラフトワーク
放射能」という曲を70年代に作っていた。
ドイツが脱原発のほうに向かって方針転換しているが
肝心の日本がね・・・やめてほしいと思います。
マタイ受難曲」から おお、こうべは血潮にまみれ バッハ
人生の最期に聴きたい曲。