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まとめ・文字起こし+ココログ過去記事集

ファミリーヒストリー 桂文枝 父方・河村家

私が生後11か月の時に父が亡くなった。それだけしか聞いていません。
どこでどう生まれたのかわかりません。
母は父の死後、父方のほうを出ましてね。
その後一切行き来がなかったものですから。
大正10年生まれの母。

戦後、母は息子に父のことを話したがらなかった。
師匠の手元には葬儀の際の写真1枚だけ。

河村家
戦国時代から岐阜県本巣市


善永寺には1570年、11代前の祖先・五良作が石山合戦の時にもらった
褒美の鐘がある。(石山合戦:信長と本願寺の戦い)

明治7年、文枝の祖父静衛誕生。←※文枝の本名「静也」は一字いただいて命名


祖父の遺品に金鵄(きんし)勲章。日露戦争で陸軍に召集され奉天会戦へ。本隊より先に相手のテリトリーに入り情報を仕入れる役目。
金鵄勲章の年金は当時の金で100円。公務員の給料2カ月分を
生涯にわたり支給された。やがて薬の卸問屋を開く。

大正5年、文枝の父清三誕生。
清三は大阪大倉商業学校へ進学。成績が悪い者は放校、転校させられる。入学時2クラス→1クラス。父は優秀な成績。卒業後野村銀行天六支店へ。(←現在の野村証券は、証券部が独立してできた会社)


落語や漫才が好きで、職場で披露。

姪 : ものすごい優しい人。神戸屋のパフェとか食べさしてくれた。優しさが顔に現れてましたな

昭和16年、25歳で縁談。
母が家柄の違いから一旦縁談を断るも、直接会えば気に入るはずと会わせる。
治子(17歳)両親を亡くし叔父の家に引き取られるがわがままを言わず。
結婚が決まる。清三は酒が飲めなかったので甘味屋でデートした。
善哉が好きだった。
清三25歳、治子20歳で結婚。
清三は20歳のころ徴兵検査を受けているが、視力が極端に弱かったので免れている。

昭和18年7月16日、静也(文枝)誕生

※築80年の長屋が戦災を免れ、今も残っていることに驚いた。八畳二間。
戦争が激しくなったため、病弱な者や年輩者も戦地へ。
清三の病名は肺浸濡(軽度の肺結核)。
半年後快方に向かったのもつかの間、召集令状が。

熊本市には従兄の妻が暮らす。玄関前での出征時の写真を保管。
めいの清子さんはこの場に居合わせている。

ただ一つの一枚の写真なんですね。
父の心中・・なんか苦笑いしているように見えますけど。残酷なもんですな。

大阪陸軍歩兵第92連隊に配属(昭和19年3月急きょ編成)

真田山で過酷な訓練。入隊1カ月後に重い結核で倒れ、大阪陸軍病院に入院。
(現在の大手前病院)容体は日に日に悪化。
「ぜんざいが食べたいんだ」

わがままを言うような人ではないが、この病院で死ぬのではないかと。
(家族で)必死に探してきて、お砂糖と都合してぜんざい炊いて。水筒に入れて、持ち込んだ。「おいしかったよ、ありがとう」入院から2カ月後、27歳で亡くなる。

清三の母「あなたはまだ若い。別の人生がまだある。静也はうちで育てます」
翌日黙って家を出た。

・・言葉のあや、というか。「子どもをとられる」と思ったんかも。
大正区で賄いの仕事を見つけたが、火事の延焼で思い出のすべてが燃える。小学生の静也を兄に預け、別の仕事に就く。週に1度しか母と息子は会えなかった。
昭和37年・文枝関西大学商学部へ進学。
建設現場の食堂で働いて工面した学費。落語家の夢をいったんは猛反対した母。
昭和42年デビュー。

昭和55年、治子は一人で善永寺を訪ねる「息子は一人前になったから、先祖のお墓に報告したい」だが夫の墓はなかったため建立「先祖より大きいものは建てないで」

天皇陛下にお会いしても失礼のないように」

母が言った言葉は平成19年の園遊会で現実に。

真田山の陸軍墓地の納骨堂。身元調査は3年前に始まったが思いがけず父の遺骨が見つかった。

僕の体の中にちゃんと父が生きてるような気がします。これから共に生きていく。
 
2022.1.8追記
3.27放送回で「新婚さんいらっしゃい」勇退。同一司会者によるトーク番組の最長放送はギネス記録(51年2ヶ月)