音楽楽しんだことないかもしれない。本当に苦しいことばっかりで・・・
ふるさとの海を思い、つくったのが「夕陽を追いかけて」
僕はリーダーと思ったことは一度もないんですね
たまたま一番年上になっちゃったんで 強引に いろんなことを
やらなきゃいけないなぁ、とは思った。
できることなら リーダーは やりたくないし 向いてない人間だと思います。
若いころは新しいことをやろうとか もっとできなきゃいけないとか
自分に鞭打つことが多いんですけど
音がどうだこうだと言うのはもちろんあるんですけど
楽しむことに徹したいと思う。
安部俊幸:ステージの上の財津和夫を初めてみた その時からずっと財津和夫は 僕のヒーローでアイドルです。
※追記:安部俊幸さんは2014.7.7 脳出血のため、居住地のインドで亡くなりました。
宮城伸一郎:全てのものを、ゼロから1をつくりあげるひとですから、財津さんが居ないとグループ全体が成り立たないわけです。
姫野達也:18ぐらいの時から知ってるわけでしょ。財津さんとしてはすごく子供っぽく見えたと思う。だからその関係が今でも続いているみたいな。
上田雅利:厳しい人でしたよね。音楽に対して求めるものも厳しくて。精神力は見習うね。どんな時でも強いよね。
23歳の時「魔法の黄色い靴」を持って上京。
自分の中に福岡を持ってちゃいけない。切り捨てようとしてました。故郷を。
↑新田和長(元チューリップディレクター)一つの曲に、フォーク的な要素、ロック的な要素 全部入ってる。転調の仕方なんかも実に見事。我が道を行く音楽をやっていた。ものすごいピュアだったし、パワーがあった。びっくりした
若いせいかネガティブなことは全く考えなかった「こんないい曲を作ったんだから、だめだって言われるはずがない」100%そう思っていました。
もうちょっとわかりやすい曲を、とはよく言われましたし
自分が目指してきた、得意とする曲とは違うものを作らなきゃいけなくなり
どうしたらいいのか正直わからなくなった。
死に物狂いで書きあげた「心の旅」
レコーディング当日、メインボーカルの交代を告げられる。
「はぁ?これで終わりだな」と思いました。
この曲もヒットしない って・・・
彼が歌い出してからも思ってたかもしれない。
僕が間違っていたのは、彼が甘酸っぱい感じの声だから
それがいいんでしょうね。当時は分かんなかったけど周りは分かっていて。
今となっては本当にそれでよかったと思いますね。
ロックでもフォークでもない。少なくともアイドルではない。
こういうバンドは3年ぐらいで飽きられると思ってましたね。
「青春の影」こういうバラードが作りたい、と。
シングルのために作られた曲ではなかった。
塩瀬修充(元ラジオ番組ディレクター):コンサートが終わり楽屋に引き上げると
財津君が他のメンバーに対してものすごいダメ出しをして。すごい剣幕で叱るように。第三者はそこに居るのが怖いくらい。福岡から出て来てなんとかしなきゃという責任感と決意があった。
・・・そこ行って謝りたいことばっかりですね。
チームワークの楽しさ、或いは一緒にやった仕事をたたえ合うことができればよかったなぁ・・・
チューリップって肩書をつけるのは違うだろうなと。
バンドって「じゃ、作ろうね」ってできるもんじゃない。家族みたいなもん。
気がついたらできていた、それがバンド。
バンドの苦労というのがあるなら、一通り体験しましたね。
アマチュアリズムがあり、青春時代を引きずってデビューしたから
かんかんがくがくじゃなく、喧々諤々。だから忘れられない。
財津さん更年期障害やったん。
「体に力が入らない、仕事したくない、人に会いたくない、なにもしたくない。
自分がこんな風になるなんて、と。」
いま50代以上で同じ症状の人おるんな。うちの旦那みたいに。
自分が上手に生きていくのが下手。
悩みや辛いことを、人と分け合ったり相談したりができない。
自分に自信があり過ぎて、何でも自分で解決できるという
生意気さで生活してきたので
神様が「お前反省しろ、いちど他人に救われてみろ」
そう思ったのかもしれないですね。
悩んだ時は一人で名島の浜に。
「夕陽を追いかけて」
つくったときよりも、すごく親しみを感じる
今のほうが似合う。戻ってくるだけで 自分がすっぽり子宮に戻っていくような
沈む夕日は止められない でも追いかけていく
それなりに自分なりの歩き方で歩けばいいんじゃない
自分に適当な道が自然とできていく そういう道を歩いていけばいい。
一回り上のいとこの姉ちゃんの実家に行くと、
高校の頃の彼氏にもらったという
「心の旅」のポスターが額に入れて飾ってあり。
ワタシが中学の頃初めてみたライブ。場所は違うけど↓
曲目
心の旅
青春の影
虹とスニーカーの頃
サボテンの花
夕陽を追いかけて
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