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まとめ・文字起こし+ココログ過去記事集

ミュージックポートレイト なかにし礼×由紀さおり

由紀さおり



合唱団にまずお姉さんが入って。先生から「いいお声だから歌手の道に進んだら」と言われたが、私はウケ狙いですから(笑)拍手もらえればいい、と。動物園のアシカショーの後とか、デパートの屋上とかで歌ってました。かわいいわ、上手よ、と言われるの大好きだった。

もんしろ蝶々のゆうびんやさん
 
最初にレコーディングした曲。78回転の時から歌ってんのよ。

All of me   エラ・フィッツジェラルド

歌がうまくなるためには人前で歌わなければいけない。通ってたって駄目だよ、と先生に言われた。高校の時銀座のキャバレーで精いっぱい背伸びをして歌った曲。化粧をして出ていくのがお勤めのようで嫌だった。

恋はみずいろ ポール・モーリア
 
売れなくて閉ざされたような気分の中解雇通知が来て。大人の世界ってこういうことなんだと傷ついた。近づくかもしれない、遠のくかもしれない。どうしていいかわからないときに最初の旦那さんが(←音楽ディレクター。69年結婚、15年後離婚)道を開いた。

夜明けのスキャット 由紀さおり
 
視聴者として見ていた音楽番組に出て行って歌う。嬉しかったけどゲストで出ている先輩たちに遭遇すると、20年30年歌ってらっしゃる方もいて。あたしはまだスタートラインに立ったばかりだと足が震えた。
 
 
「夜明けのスキャット」以降「一発屋」って言葉が流行って。次に何かないと消えちゃうなあ、と思っていたらなかにし先生からもらった。(←あの声は哀しい歌は似合わないので、さらっと歌えないかと思い作った。自立した女の歌)
自分の人生で初めて「歌えません」と言って泣いたんです。1年という短いスパンでミリオンが2曲出た。

結婚生活の破綻

かなりや(童謡)
 
別居してるのに「旅館の朝ごはん作ってます」って大嘘こいてた。歌い手としてはきつい。どうやったら自分の歌を見つけたらいいだろう。若くもないし。女として、歌い手としての人生が進まなくなった。「ビッグショー」で歌わないかと勧められた。歌い手はどこまでも歌っていかないといけないと気づかされた。
 
赤とんぼ(童謡)
 
母から「お姉ちゃんと歌ってみない?」安田シスターズとしてふたりでやってほしいと。一番喜んでくれる、親孝行だと思ったけど、亡くなった後はライフワークになるような出来事をプレゼントしてくれた。
 
タ・ヤ・タン ピンク・マルティー
 
音楽に国境はないし、この年になって思いもよらないことがあった。ロイヤルアルバートホールでスタンディングオベーション。長年継続してきたけど、無駄なことはなかったんだなあと思えたことが嬉しかった。
 
ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ 由紀さおり
 
今の自分を表す曲。ライブ体験をしたジャズをもう一度歌いたい。スタンダードジャズを日本語でどう歌うかって。
 
人生の終わりに聴きたい歌 朧月夜
 
黄色のじゅうたんがワーッと広がっている。春うららかで。幼い頃を思い出すと着物を着た母の姿がぱっと出るんですね
「みかんの花咲く丘」とか、母の最期に歌ったんですね。亡くなる前に母の最期の言葉が「もういいから外へ出て遊んでらっしゃい」母の中ではあたしたちはいつまでたっても子供なんですね。自分の最期もほのぼのとした母との思い出に包まれて旅立つのではないかなと。
 
なかにし礼

人生の並木路 ディック・ミネ
 
家族の別れを歌った古賀メロディー。昭和13年、大きな造り酒屋に生まれた。昭和20年、ソ連軍の侵攻。強制労働で父親を亡くす。列車がよく止まるの。まわりの人たちがうなるように歌う。歌って泣かせて。それが僕の音楽体験。
 
椰子の実

特攻隊で生き残った兄は住んでいた家を担保に一攫千金を狙ったが財産のすべてを失った。兄貴としての何かが崩壊していった。小樽から青森へ。転校したときこの歌に出会う。自分の中のある種の寂しさ。音楽の時間に聴かされた時感動した。支えられた思いが強い。
 
 
ものすごいびっくりしたの。衝撃がすごかった。高校3年で家出したの。兄貴のせいで生活破たんして。働きながら立教大学に合格するも受験料を払えず除籍。やがてシャンソンの学校へ。訳詞の仕事を始める。ひと月に70曲訳したことも。
 
涙と雨にぬれて 和田弘とマヒナ・スターズ
 
日本人ならシャンソンじゃなくてさ、と石原裕次郎に言われて手がけた。いままでないものが誕生するのは嬉しいことだった。スタジオに流れた時は「いや~気持ちいいな」って思ったんです。
 
知りたくないの 菅原洋一
 
ひらめきを初めて感じた。「過去」を初めて歌詞に使った。スタジオの反応は「歌いにくい」「カ行が二つ続くのは詞として失格だ」と菅原洋一が言い張った。「あんた歌手でしょ。与えられた詞を歌いなさい」うまいのよ、なんで最初から歌わないのかと。
 

目もくらむようなユメと喝采を思い起こさせる大切な曲。1日8箇所でレコーディングしてた。自分の作った歌を聴きながら町を歩くっていう幸せな生活。スタジオにはかまやつさんや安井さん、全員若くて全員自由。全員ファッショナブルな方たちが来てた。かまやつがギターを爪弾き、安井かずみと一緒に曲を作る。青春の挽歌みたいなもんよ。「きみとぼく~」の部分がなかにしさん。

かなりや(童謡)

作家が夢見るべき生活から転落して電話がなれば借金取り(から)←兄の尻拭いをしてた時代。生活に終われて何もかけなくてのた打ち回っている時に「かなりや」が頭から離れなくなった。作詞家でも歌を忘れたかなりやになる。ひらめきがこない。俗世間から離れた遠い世界に心が到達できれば詞が書けるだろうと。
 
石狩挽歌 北原ミレイ

書きあがる瞬間には雑念も何もないんだけど、そうなるまでにはいろんな雑念を燃やすことにより気球が持ち上がる。阿久悠へのライバル意識とか兄貴への憎しみとか。

交響曲第2番ハ単調 復活 マーラー作曲
 
第2楽章が鳴るわけ。余命いくばくといわれた人間が生き返り、いろんなことを夢見ながら聴く。
 
人生の終わりに聴きたい曲 帆のない小舟 なかにし礼
 
自分を慰めて作っていたんだけど、これは何とかたどり着いたアパートで押入れあけるとゴキブリがザーッと出る。絶望的なシーンなわけよ。この時代に還りたいと夢にも思わない最悪な時期に歌っていた。
 

追記 2020.12.24、なかにし礼さん死去。82歳。帆のない小舟は聴いただろうか


佐野元春のTHE SONG WRITTERS なかにし礼 - .net.amigoココログ跡地2007~