志らく 談志師匠は亡くなってないよ。生き返ったろ?3日後に。北朝鮮のほうで亡くなったやついるじゃない。だって あいつ大好きだったじゃない。「マンセー」とか言って。
毒蝮 長い付き合いだから3回ぐらい殺意が芽生えた(笑)俺ら同い年だから腹が立つことあるよ。快適なやつじゃないもん。これは偲ぶことにならない。
志らく 師匠はビンラーデインが亡くなった時も喪に服したんですよ。で、自分が死んで金正日をつれてっちゃったんですよ。本当は酒も飲まないもんな、健康好きだもんな
高田 僕は13、中1で初めて小ゑんちゃんみたんですよ。まだ二ツ目のときにCMやってたんだから。談志師匠は「居残り」が好きだったから卒業でやりたいんですけど、どうやってやるんですかって、住所調べて手紙書いたらこんな分厚い手紙が来て。見ず知らずの学生にレポート用紙10枚ぐらい。最後に「なにはともあれ、楽しくやってください」と。なんてやさしいひとだろうと。面倒見のよい人だろうと。人形町末広がなくなるの、昭和45年ぐらいですかね。寒空に「もったいねえな、こんなところ」って見てたらまるで月光仮面だよ、談志がファンの前にすーっと現れて。「くやしいだろおまえら、こんないいところがなくなるなんて。政治が悪い、おまえら選挙権あるか、時間あるのか」って。貧乏学生10何人と師匠が喫茶店に行って。「あの居残りの僕ですよ」って言ったら「おおおまえか、できたか。おい学生、ここ割り勘だ」落語立川流に、手土産だといってたけしを連れて行った。落ち込んでた師匠が喜んでくれた。
蝮さんと談志師匠の出会いは19、大学1年生。プロデューサー・湯浅喜久治(1929-59.「芸術祭男」の異名をとる)が落語好きな蝮さんと師匠を引き合わせた。当時の師匠はラッパズボンに赤いジャンパー、ベレー帽の生意気なやつ。何ヶ月かあとに池袋で再会。「目黒でぎょうざを7人前食えたらおごってやる」といわれた。夕飯のときに「お前らみんな面白くないけど、こいつのだけは面白かった」と言われたのが志らく。昭和60年入門。志の輔が二ツ目のとき。人情噺を40分やったら、小さん師匠に「談志に似ている。小遣いをやる」と1万円もらったとか。
小さんと談志は親子のような関係。弟子が師匠にヘッドロックをかける。父親を早くに亡くしたので、小さん師匠への父親コンプレックスじゃないか。弟子の手前破門にしたと蝮さんが言っていた。
高田 九州の雑誌に発表したんだよね。次の日に夕刊にどーんと「高田破門」ひどいよ鬼ですよ。読まないと思うじゃない。「いい人」という意味で「あの人怖いよね。でも奴さんもかわいいこというよね」ジョークで言ったら、記者がバカだからそのまま載せちゃって。馬鹿なファンが師匠にその雑誌を贈っちゃって。志の輔に相談したら「詫び入れに行こう」と。許す条件が「上ロース3枚とキャッシュ40万」意味がわかんない。「俺が上ロース買ってくから、お前40万」つったら志の輔さんが「ええええーっ」あいつ現金で用意した。たけしとしゃべって師匠を怒らせたときにも「来なくていいから写真のっけてほしい」って言うから、二人で土下座して週刊ポストに載せたら「どうだ。たけしと高田より俺のほうが偉い」って
高田文夫が「600こちら情報部」に出てたことを思い出せる人はどのくらいいるだろうか。
長年「帯淳子」さんが思い出せなかった。
弟子たちを呼び、声帯を取ってしまって、歩けなくなった師匠をかついでここへきた。筆談だったが頭は立川談志のまま。その場にいなかった志らくは石原慎太郎に相談して、ひとりだけ見舞いに来ることを許された。弱った姿を見せたくないと、病室の名札も別人のものに。筆談で「人生こんなもんだい」死が近づいてきたら生きようとしていた。無様な死に方がしたいといったらそのとおりになった。
談志師匠の母親は96歳で、元気なんだけど老人施設に入っている。
毒蝮 6月、「パパを連れて行きます」とユミくん(娘)から電話があって。車椅子姿で無表情で、こうなっちゃうのかと。二人が会ったんだけど、お母さん元気なんだよね。ドラマだよね。部屋に入ったら談志の写真がたくさん貼ってあって「克ちゃん克ちゃん」って。でも師匠はほとんどしゃべらない。俺は「これが最期じゃないかなぁ」という感じはしたね。6月5日ですよ。ノンくん(妻)がいなかったら師匠は務まらない。放蕩生活やいろんな人から来る文句を全部受け止めたんだから。あいつも奥さん孝行したよね
「報道ステーションSUNDAY」で石原慎太郎が「あばよ、談志!」